昭和54年3月14日 朝のご理解


 御理解第37節「 女が菜園に出て菜を抜く時に、地を拝んで抜くというような心になれば、おかげがある。また、それを煮て食べる時、神様いただきますというような心あらば、あたることなし。」

 こういう、生き方が私共の生き(?)生活の前面に頂き現されるようになったら、それが本当の金光教のご信者ぶりというものが出てくるんだと思うのです。お道の信心をさせて頂くのですから、一目ではあ、あちらは金光様のご信者だなあと、どこか違うと思いよったら金光様のご信者じゃったげなと、やはりこの自分の内容に、いうなら血に肉にならなければならないと思うのですよね。
 それをまあ合楽理念をもってまあいうなら合楽理念によってこの三十二節がある意味でされると申しましょうか、そこからいよいよ教祖の御教えの偉大さ、教祖の御教えの有り難いということの合楽理念を持ってすると一段とそれが高められたものになると思うのです。
 昨日は十三日会でしたが、大変盛大でした。私いつも思うのですけれども、合楽の十三日会は、その、非常にその、昨日のご祈念終わったご理解の後に合楽が誕生したのは十三日会が出来ることのために合楽が誕生したというご理解を頂いたのです。考えてみれば考えてみるほどに、十三日会が生まれるために合楽教会が誕生したのだと。してみるとこれは十三日会というのは大変な内容を持った会だと言うことになります。
 ですから、まあ当然のことですけれども、自然、非常にバラエティに飛んだ信心研修になるわけですね。いつも。合楽のご信者がみんな集まるというわけじゃないですけれども、とにかく合楽に御神縁を頂いておるまあいうなら、九州の全県、山口あたりからまでも、広島あたりからまでもその、会に参加される。ですから発表されることも非常にバラエティに飛んでいるのです。昨日それをしきりに私感じたのですけれども。そういう、いうなら神様の願いがあのようにして成就しておる。昨日、私は初めて十三日会で発表を聞かせてもらったのですけれども、林さんが十三日会は放生会とも言われます。私共のお詫びお粗末ご無礼がすべて許される日と頂いております。という意味で十三日会を大事にしておりますというような発表がありましたです。ただ、神の願いが成就するということのその内容にです、確かに、私共、生身を持っておる凡夫のことですから、本当に、お粗末御無礼なところばかりなんだと。それがね、一日の奉仕、一日の研修によって、もし許されたと感じて帰れるならばこんな素晴らしいことはないと。草一本むしらせて頂くでもお詫びの印。雑巾一つ持たせて頂くだけでも、神様への神願が叶うことの修行がだと言う風に頂きとめてまいりますと、いよいよ十三日会の深さ広さと言うことが感じられます。
 十三日といえば世界の悪日のようにいわれます。その世界の悪日と言われるような日が合楽では、神願成就の日として最も尊い日として頂く。昨日は、とにかく今までのあらゆる宗教者が言うてきたそのいうならばまっさかさまな表現で合楽は、いうならば特異性というか、独自性というか、ね、合楽が誕生しなければそれは分からなかっただろうというような深い意味合いをも含まれておるのだと若先生が発表しておりました。
 最近左利きという何か御本を図書館から買ってきて読ませて頂いて、いよいよ合楽の左を大切にするという内容がもう非常に深い御神意のあってのことだと言うことを言うておりました。キリスト教では左手を悪魔の手というそうです。仏教では忌み穢れた手だというそうです。ね。合楽では、その反対のことを言うわけなんです。ね。いうならば、合楽天国建設の神の願いのキャッチせよということはまずそこからおこらなければならないのです。ね。誰でも合楽天国ということは、勿論合楽という地名のことではなくて神と氏子とが仲良くする。神と氏子とが合楽しあえれる世界。そこから生みなされる世界。それを合楽いうならばこれは、私共としては地上天国ということになるでしょう。その地上天国のおかげを頂かずしてあの世に天国があるはずがありません。この世で極楽を感じて有り難い勿体無いの信心生活をさせて頂いて初めてあの世に極楽の世界も、あの世に極楽の世界も天国の世界もつながっていくのだと。ね。この世にいわゆる地上だけ地上天国を築くというのだけではなくていわゆる合楽天国をお互い目指させて頂くためにです、それが神の願いとあってみればです、その願いである、その願いに応えられるというそのものを私共はキャッチしてそれを日常生活の上にあらわしていくというです、ね、いうならば十三日が悪日言われる日が神愛の日として、左の手が魔の手、忌み穢れた手というのではなくてです、その左手を持ってしなければ本当のことは出来ない。神の願いはキャッチすることは出来ない。
 というほどしの事を説くのですから、ね、例えば、昨日、まいりました新聞のことを皆さんに聞いて頂いたのですけれども、トップ記事の所に春の霊祭近づくという見出しに大きく、御霊はわが心に生き給うという生き方。これが私は嘘とは思われない。百代も千代もずっと昔のいうなら大坪なら大坪の家につながる血というものはそれこそ連綿として、つながってきておるいうなら親の血が私にあるという意味でしょうから、確かに私の血の中に先祖の血もある。御霊はそこに生きておられるということであっても、それで私が助かるという事でもなからなければ、御霊が助かるという事ではない。私はこれも逆さま、反対だと。わが心が御霊の心に生きるのだと頂いたのです。わが心が御霊の心に生きるのだと。という事になるとどういう事になるかというと、自分の心というものがです、御霊に生きるほどしの生き生きとしたものでなからなければならないと言う事。信心の賀び、またお道の信心で言われる、真であり真心である、その真、真心が御霊の心に生きるのであり、そこに御霊が助かるのであり、私共も助かるである。だから反対です。だから信心しておるから、御霊様が助かるという事じゃない。やっぱ生き生きとした信心の賀びを持って御霊に奉仕するところに、私共の生き生きした心が御霊に通うのであり、御霊の心に生き続けるのであり、そこに御霊の助かりもある。ね。例えば地獄道に落ちておる御霊でも私共の真心が生き生きとして通うときに、その地獄から救い上げてあげれるだけの力働きというものが起こるだということを昨日そのことを例話を皆さんにも聞いて頂いたことでした。こういう考え方も合楽の理念を持ってすると反対なのです。逆さまなのです。例えば教団で言われておる布教について、布教の手立てというものが先日の教報に随分長い時間をかけてそのことについての研修をなされております。鹿児島の行徳先生の司会で。だからあの金光教がこれから本当に立ち直って布教することのためには、恐らく問題は取り次ぎするもの自身が助からなければならん。力を頂かなければならんといったような自慢話しでもよいからしてくれと言う風に、そげな話しが出てくると思うて、楽しんでもう一生懸命読ませて頂いたら全然出てこない。
 どういう事が出てくるかというと、まず電波布教が徹底してなされなければいけない。文書布教がいる。ね。まあその中でも、これは有り難い事だなあと、それも人間心ではだめだと私は思うたのですけれども、例えば月次祭と言う時には、ご信者の一人一人が一人で三軒は必ず三軒は必ず電話をかけるという事を信者一同で約束しておりますという発表があったのです。今日は月次祭ですよというて、まあ、忘れておる人たちがありますから、電話をかけるとこういうのです。そういうことを皆話し合っておりますとこういう。そげな風でまあ、出来るだけのまあ信者を信心に導こうという手立てをこうしておる。それこそ自慢話しのようにして話しておられました。合楽の場合はそうせにゃならんといいませんですね。そうせずにはおられんですから、車がまあ一人乗られるけんおいでなさらんかというとでしょうが。このごろ鞍手あたりから、五人乗りの車に七人のってきておんなさる。止むに止まれんものなんです。だからお取次ぎを頂いてひっかからんごとというてお願いして、お願いしましょうというて、本当に七人乗ってきておんなさる。トランクに乗ってきとるなさるげなもん。二人。というようにですね、これなんかはそうせずにはおれないのでしょうが。そうしなさい、あなたのところでもそげんしなさい、あなた一人で乗ってきちゃもったいなかばいといったようなことはここでは言わん。おかげを頂いてそうせずにはおかん。だから合楽の生き方はどこまでもここで言うならば取次ぎ者自身が助からなければ力を頂かなければ人は助からないという生き方ですから、これはあらゆる宗教の上にです、今合楽で言っておることは全部反対なのです。というほどしにあるというところが、宗教以前の宗教だ、前代未聞のことを合楽では言っておるのだということにまあなるのですが、そういう事はあらゆるお話しの中からちらちら出てくるわけです。そこでなら、この三十二節もです、合楽理念に基づいて、合楽理念にアレンジされてのいうならこの三十二節になったらどういう事になってくるだろうか。ね。合楽建設の神の願いということはどういう事であろうか。ね。それをキャッチする。起きてくる様々な問題も難儀もそれが、神様の願いとあっては、合掌して受けていかなければならないと言う事にもなりましょうが。例えばこれを商売の上にいたしますならばです、それこそ、大地を拝むような心で、お客さんを拝む。それが冷やかしのお客さんであっても有り難うございますといえれる。仕入先を大事にする。お客さんを大事にする。買うてもろうたから有り難いのではない。お店に来て頂いて有り難いという拝み方。
 神様がお客さんが買い物をしてくださった。その時に勿論頂きます、いくらお返ししてございますという風に言うてございますけれども、神様頂きます、お客さんから頂くのじゃない、神様頂きます心あらばあたることなしとおっしゃいますようにです、お客さんのお買い上げたお金を頂きます時にです、神様頂きますという心あらばというようになってくるのじゃないでしょうか。それが本当に身に付いてくる。そこにはね、いうならばおかげがあると神様が断言なさりまたは次にはね、あたる事なしと神様が断言しておられる。こういう生き方でいくならばです、商売を繁盛するでしょう。損するとことはないでしょうという極限にもなるでしょう。ね。ご商売人のことだけではありません。ね。士農工商、それぞれにお互いに役前があります。御用がございます。その御用の中にです、この三十二節の中に、私共の生き方の上にアレンジして、頂きますということが私はとりもなおさず神様の合楽天国建設、神の願いを私共が聞いた事になりキャッチしたことになるのじゃないでしょうか。合楽のご信者の皆さんが一人一人がです、一つ合楽天国に住まわせて頂かなければならない。
 昨日今度、宮崎に参りました、お土産話しのような話しを勝彦やら、光明兄弟で話しておりましたが、あちらで、お祭りが終わって御直会の時に歌が出ろうとする時に、歌の本を持ってきておられた、それで、歌の本をこうやって開けたところに、士農工商という歌が載っておった。ちょいと、歌はまってなさい、ちょいとここには士農工商という歌があるよともう皆感動してその後に、八光一宇の宮崎の平和の塔です。今平和の塔と言ってある。ところに皆でやらせて頂いて、もう、網さん、網さんがね、感動してからあの写真の五枚か六枚か入っておるとから、二百円するそうです。それを百二十冊買われたそうです。もう士農工商の絵葉書なんです。もうそれこそ感動のあまりに買われてそして、今度の十三日会に皆さんに配ってくださいと言うてことづけておられます。
 それ皆さんに皆一組づつもらって頂いた。またその歌の文句を昨日発表しておりましたが、もう本当に驚くばかりの合楽理念をそのままな表現なんです。その中に、いうならば、合楽風にそれをアレンジするならば、合楽という徳の船にみんな乗らせて頂いて、神風を受けてそして、向こう岸につかせて、彼岸のかなたに、その彼岸のかなたこそが合楽世界であり、合楽天国である。というような歌の文句でした。そういういうならば昨日は働きを受けての十三日会でしたが、私共がいわゆる彼岸の彼方に、ね、合楽の船もろともに、みんなが一緒につかなければならない。合楽天国ということはです、いうならばいつも申します、真善美に輝く、貧相病のない、ね、世界だと言うわけなんですね。合楽天国。そういういうならば地上天国、そしてそれは勿論あの世にもつながるところのおかげの世界を開いていく。そのために合楽は生まれたんだと。そのために十三日会があるのだと。神の願いが成就すると言うことはそういうおかげの場に、人間氏子の一人一人が住まわせて頂けれることを持って、神の願い。だから合楽におかげを頂いておる皆さんがです、その神の願いを頂いて、いうならキャッチしてです、これが、例えばそこに難儀というものがあってもです、この難儀こそが、合楽天国へ住まわせて頂く一つの手立てだ、それが階段だと頂いての信心生活。それをいうならば、神様を大地を拝むという心になればとか、または、煮て食する時に、神様頂きます心あらばという内容をもってしてまいりましたら、いよいよ、有り難い世界にお互いが住む事が出来るようになるでしょう。
 今日は、ご神前で頂いたことは、この公という字がばらばらと崩れていくところを頂いた。ハムと書いてありますね。お互いがこうやって、一生懸命信心させて頂いておりますけれども、ただ、願うことは自分のことばかり。ね。公徳心というようなことを申しますがです、ね、いうならば公徳の心というか、公のことを祈るとか願うという心がなくなってしまいよる。いやそりゃ、世界総氏子身の上安全のことを願いよりますという、それも実感としてです、私共がそれが願っていかれる、祈っていかれると言うことはです、いわゆる合楽理念に基づく信心姿勢というものをいよいよ作らせて頂いて、それこそ、まずは自分の周囲に合楽示現活動を、まずは隣の事を願うといったようなことが本当に、出来るということなのです。一人でも多くの人が合楽天国に住まわせて頂けれる事を願いとしてのいうならばそこに芯になるところの願いというものが、○少が先日から頂きました、人を祈るというようなものがもう少し切実さを頂いてこなければならんということではなかろうかと思いました。合楽示現活動、それはとりもなおさず、公の事を願うと言うことなんです。ね。自分の周辺のことを願うと言う事、またその手立てなんです。合楽天国建設の神の願いをキャッチせよ。これをいつも神様のそういう声を聞いておる思いでです、ね、それを頂いてまいりましたら、いよいよ金光教のご信者ぶりというだけではなくてです、合楽のご信者ぶりというものが足ろうてくるのではないかと思います。教祖様の御教えの深さ広さ、金光教が百年間頂いてきた、それは教祖様の浅い面だけを頂いてきた。教団のありかたがいうならば、それを合楽を謀反といわれりゃ謀反と言われてもよい。謀反と言われるほどしに、いうならば全部をまっさかさまに変えなければならないと私が言っておるのですから、やはり謀反になるかも知れません。けれども私が言っておる謀反の道が合楽天国につながることのための道であるということが皆が分かったならばです、本当にそれに切り替えさせて頂かなければおられないということになると思うのです。昨日、佐田先生ところのおじさんにあたる方が大変何かえらい御用をなさっておられるそうですが、中近畿でお話しを聞かせて頂いて以来、合楽という信心というか、教えに大変共鳴されて、おかげを頂いておるが、最近は自分のところの神様にお勇みがつくようになったという手紙がまいりました。昨日そのお届けがあって、昨日、会が済んでから、皆帰った後ででした。あの、そのことを神様にお礼を佐田先生が申しておりましたら、この封筒のね、が、張ってあるけれども、こうのりが外れておるところを頂いたというのです。だから、ついこの頃からの千恵子先生の学友でもうとにかく、大阪講演以来一から十まで、合楽に切り替えて、合楽の生き方に切り替えて大変おかげを頂いておるというお教会がもうお礼の手紙がずっと参っておりましたが、1番最後の、一週間ばかり前にきた、その手紙の中にはそれがもとで夫婦喧嘩が起こっておるような模様だったと。模様のだからこういう時でもやっぱり合楽理念でいう黙って収めるでいかにゃいかんですかといったような手紙がそのまいっておりました。
 だから合楽理念をぱっと頂いただけでもおかげを頂くけれどもです、これは芯から頂かなければね、内容がここにあってもこれが外れておったのでは、やはり行くところにはいきませんよね。だから佐田先生にあの、合楽理念をね、これだけ覚えたからよいというのではなくて、いよいよ合楽理念の一つの行者と自分で思われるような合楽理念を行じてもらい勉強していただかにゃいけん、ご返事を書かれるときにはそう言ってやって下さいというて申しましたことですけれども、限りなく合楽理念の中に皆さん浸っておるのですから、いよいよを持ってその、それが血に肉になるまでの、信心というならば辛抱。その辛抱することが有り難い楽しい、一つのリズムにのっての信心生活。日々がそういう、なるほど極楽というところが、ずっとお風呂に入っておりゃにゃならんとか、ね、(?)座っておらなんならんという事ではない。様々ないうなら事柄の中に、合楽を感じるのであり、賀びを感じさせてもらうというのですから。
 いよいよ日々がね、もうドラマチックにいこうとこういうのです。ね。だから楽しいのだと。だから愉快なのだと。いよいよ私共の一生がです、素晴らしいバラエティに飛んだ、生き方、そこにいうならばパラダイスを感じる。そういうおかげを頂きたいですね。
                                     どうぞ